これまでに、たくさんの国を訪れてきた。せっかく色んな場所を見てきたのだから、「何か旅のコラムを書いてみたい」と、以前から思っていた。
でも、おすすめの街などを紹介しようとすると、「この大聖堂は何年に建てられて…」とか、「街は世界遺産に登録されていて…」とか、どうしてもガイドブックのような文章になってしまう。これでは面白みがないし、臨場感に欠ける。
「もっと肩肘張らない、旅のコラムが書きたい」。そう思った瞬間、旅先で驚いたことやふと感じたことなど、些細なエピソードが次々と浮かんできた。どれも小さな記憶ではあるけれど、生きた風景として、今も心の中にある。そんな「記憶の風景」を、少しずつ紹介していこうと決めた。
_____________________________________________
旅行会社に入社し、海外添乗員として初めて訪れた街が、オーストリアのインスブルックだった。滞在型のツアーだったから、一週間以上をこの街で過ごした。長く滞在していると、意識は徐々に旅行者から生活者へと変わっていく。
ある夜、小さな教会の横を通り過ぎると、建物の中からかすかに歌声が聞こえてきた。窓を覗くと、数名の男女が賛美歌の練習をしていた。きっと日曜のミサで歌うのだろう。
普通、観光客は完成させられたもの、整ったものを見る。街の素顔は、時間をかけないと見えてこないのかもしれない。インスブルックの人たちにとってはとくになんでもない日常の風景が、ぼくにはとても新鮮に映った。