インタビュー

「日本からしかできないことを」スーチーさんの盟友がミャンマーに帰らない理由

投稿日:2015年11月10日 更新日:

f:id:yota1029:20151110214935j:plain

ノーベル平和賞の盟友が近所でラーメンを作っていた

「この写真は何ですか?」

以前、レジの横に飾ってあった写真について、尋ねたことがあります。

f:id:yota1029:20151110215009j:plain

「これは、2013年にアウンサンスーチーさんが日本に来たときの写真です」

「なぜ、奥さんが一緒に写っているんですか?」

f:id:yota1029:20151110215044j:plain

「私は、スーチーさんと一緒に闘ってきたんです」

「???」

f:id:yota1029:20151110215102j:plain

二子新地駅から徒歩15秒のラーメン屋「大陸麺本舗」は、ぼくがよく仕事帰りに立ち寄るお店です(ワンタン麺がおいしい)。流暢な日本語を話す気さくなミャンマー人夫妻がやっている小さな店で、つい2、3日前にも、会計時にこんなことを言われました。

「明日は大事な選挙の日です。応援しててください」

「何の選挙ですか?」

「ミャンマーの総選挙です。スーチーさんの最後のチャンスです」

f:id:yota1029:20151110215121j:plain

その選挙の結果は、日本でも大きく取り上げられていて、スーチー党首率いる最大野党、国民民主連盟(NLD)の勝利が確定的で、50年以上続いた軍事政権がついに終焉を迎えるかもしれない、と話題になっています。

今日のお昼、このニュースを見た瞬間、ぼくはお店に電話をかけました。

「スーチーさん、やりましたね!おめでとうございます!」

「え? ありがとうございます!」

「あとでお店行くので、インタビューさせてもらえませんか? スーチーさんとの関係について、お聞きしたいです」

「・・・わかりました。17時頃来てもらえますか」

そして店主のウイン・チョさんと奥さんのマティダさんが、実に衝撃的なエピソードを聞かせてくださいました。

スーチーさんとの過去

「マティダさんとスーチーさんの関係は、いつからなんですか?」

「最初に会ったのは、私が中学生くらいのとき。私の母が、スーチーさんのお母さんの後輩だったんです。それで、私もよくスーチーさんの家に行きました。一緒に政治活動をしたのは、1988年のときです。ミャンマーでは1962年から軍事政権が続いていましたが、1988年に大きな学生運動があったんです。学生運動のきっかけになったのは、治安部隊の発砲で数人の学生が殺されてしまった事件があったからで、その殺されたうちのひとりが、主人の友人だったんです。

主人と私は、大学の先輩後輩でした。そのときはまだ付き合ってもいませんよ。一緒に学生運動をしていただけです。それで、ちょうどその頃、スーチーさんがイギリスから帰ってきたんです」

f:id:yota1029:20151110215909j:plain

「スーチーさんはイギリスに住んでいたんですか?」

「そうです。イギリス人と結婚していたからです。でも、スーチーさんのお母さんの体調が悪くなったので、看護のためミャンマーに帰ってきたんです。だから、学生運動をしていた私たちは、スーチーさんのところへ行って、『私たちのリーダーになってください』って言いに行ったんです」

「マティダさん、立役者じゃないですか。でもちょっと待ってください。スーチーさんは当時から有名な人だったんですか?」

「スーチーさんのお父さんは、日本でいえば坂本龍馬のような人ですよ。ビルマ(現ミャンマー)の独立運動を主導した、『ビルマ建国の父』です」

「なるほど、だからスーチーさんも影響力のある人だったんだ」

「それでスーチーさんは、1988年8月26日に50万人の前で演説を行いました。さらに1990年の総選挙に向けて、国民民主連盟(NLD)の結党に加わりますが、スーチーさんは軟禁されてしまいます。1990年の総選挙では、NLDが81%で大勝したのにもかかわらず、軍政側は政権を譲らなかったんです」

「選挙に負けたのに、政権を譲らない。そんなことがありえるんですか」

「ひどいでしょう。だから今回だって、スーチーさんが勝ったけど、軍党が何をするかわからないですよ。『今回は選挙結果を受け入れる』と言っていますが、油断できません」

命の恩人は、日本の「お父さん」

「マティダさんは、それからどうしたんですか」

「私も2回、逮捕されました。それぞれ2ヶ月間と1ヶ月間、出してもらえませんでした。政治運動していたからです。暴力も受けましたが、何を聞かれてもわかりません、わかりませんって言い続けました」

「日本に来たのは、どういうきっかけですか?」

「1991年のあるとき、ビルマの日本大使館から電話がかかってきたんです。不思議に思いました。どうして日本大使館がうちの電話番号を知っているんだろうって。実は、ビルマに駐在していた松下電器の岩見さんという方と仲良くなって、私のことをすごくかわいがってくれたんです。その人が日本に帰った後、私の命の危険を心配して、日本大使館にお願いしてくれたんです。私が日本に来れるようにって」

f:id:yota1029:20151110215959j:plain

「命の恩人ですね」

「そうです。だから『お父さん』と呼んでいます。最初は大阪にあった『お父さん』の家に住まわせてもらっていたんですけど、彼は仕事で日中いない、奥さんは日本語しかわからない、少し英語ができる学生の娘さんもほとんど家にいない、私も日本語まったくわからない。だから全然話ができませんでした。少し経ってから、私は東京で暮らすことになりました。東京には他にもビルマからやってきた人たちがいたから。『お父さん』は2年前に亡くなってしまったんです。今回のスーチーさんの勝利のこと、伝えたいです」

「ご主人とは、東京で再会したんですか?」

「そうです。実は私が日本に来る少し前から、主人は日本に来ていました。もともとヤンゴン国際空港でエンジニアとして働いていましたが、その空港建設のプロジェクトは日本の企業が関わっていました。だからその関係で、栃木県にやってきたんです。あるとき、偶然に東京で再会して、その3日後にプロポーズされました(笑)」

「運命的ですね(笑)」

「しばらく別々の仕事をしながら生活していましたが、2010年にこのお店がオープンして、今に至ります。ちなみに、NLDの日本支部を作ったのは主人なんです

「そうなんですか。写真の件ですが、スーチーさんと日本で再会したときは、嬉しかったでしょうね。向こうもマティダさんのこと、わかったんですか?」

「24年ぶりの再会でしたけど、向こうもわかっていました。私が日本にいることも知っていましたし。東京大学で会議があった日に会えたんですけど、写真のときは、学生とか報道陣とかたくさんいました。でも、その日の朝にラッキーなことに、2人きりで会えたんです。10分か15分くらい話せました」

f:id:yota1029:20151110215933j:plain

マティダさんがミャンマーに帰らない理由

「ミャンマーには帰らないんですか?」

「帰っても、また捕まってしまいますから」

「そうか。過去のことがあるから」

「でも、スーチーさんを応援するために、日本からしかできないことをやっています。たとえば、ミャンマーにいても、情報統制がなされて、正しい情報がわからなかったりします。むしろ日本にいた方が、ネットを通じてミャンマーの情報がわかるんです。だからそうした情報を、ミャンマー国内にいる同志たちに伝えたりしています。また、日本の政治のことを伝えたりもします。『日本はこうしているよ』って。

それから、ミャンマーの若い子たちに政治への関心を持ってもらわないといけないから、Facebookでコミュニティを作って、そこに情報を送ったり。あるいは日本の外務省やメディアに対して情報提供を行ったりもします。時事通信の人からよく電話かかってきますよ」

「なるほど。でもスーチーさんが無事に政権を取って、条件が整えば、ミャンマーに帰れますね」

「はい。でも、日本にもたくさんの恩がありますから、完全にミャンマーで暮らすというよりは、日本とミャンマーの架け橋のような存在になりたいですね。とにかく、今は一刻も早く、ミャンマーが平和な国になってほしいと願っています」

f:id:yota1029:20151110214846j:plain

-インタビュー

執筆者:


comment

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

関連記事

日本サッカー界の至宝、久保健英選手から学んだこと

2013年の夏に、ひとりで「ツール・ド・山手線」という企画をやったことがある。自転車で山手線の全29駅を回った。 知らない人に声をかけ、「駅の看板と一緒に写真を撮ってください」と29回頼んで、一日を終 …

「多様性を受け入れ、違いを愛せる社会を創りたい」Culmony代表・岩澤直美さんの想い

チェコと日本のハーフとして生まれた岩澤直美さんは、現在、早稲田大学の2年生だ。しかし、学校の外に出れば、彼女は「起業家」としての顔に変わる。子ども向けに英語で多文化教育を行う「Culmony」(カルモ …

【報道されない3.11】地元の「語り部」が伝える南三陸の真実

在りし日の南三陸町(2007年撮影) 宮城県南三陸町に、震災の真実を伝え続ける、地元の「語り部」がいる。来る日も来る日も、この町を訪れる人々に話をしている。 2015年、何かに導かれるように南三陸を訪 …

【日本で最初に世界一周した高校生】ヤンゴンプレス編集長・栗原富雄さん

ミャンマー滞在初日、早速奇跡が起きた。 ヤンゴンプレス編集長 栗原富雄さん ヤンゴンのマーケットをブラブラと歩いていると、偶然、日本語で書かれた新聞が目に入った。 『ヤンゴンプレス』という、日系情報紙 …

モノクロが写し出す感性。ライカの衝撃が写真家・松井文さんの人生を変えた

2016年5月、二子玉川 蔦屋家電にて、写真家・松井文さんの写真展「Sentimenti」が開催された。会場でご本人にお話を伺った。 ——いつから写真を撮っていたんですか? 「小学生の頃ですね。母と …