去年、『anan』の表紙写真に思わず目を奪われた。
自分がポートレート写真にハマっていた、絶頂のときだった。
(誰だ、この写真を撮ったのは)
一目散に目次を開いた。
「撮影:長島有里枝」の文字を見て、ぼくは嬉しくなった。
長島有里枝さんと初めて出会ったのは、昨年4月、出張中の機内でのことだった。
といっても、生身の人間と会ったわけではない。機内誌を読んでいたら、その最初のエッセイを書いていたのが、長島さんだった。
こんな文章だった。
「母の音」
ロンドンに行こうと決めたのは、パンクロックが発祥したもう一つの都市NYより危なくなさそうだったからだ。わたしは18歳の美大生で、高校時代にはなかった自由を手にしていた。短期のバイトで知り合ったひとつ年上の子に誘われ、一年で運賃がもっとも安い、2月発の航空券にバイト代をつぎ込んだ。バックパックひとつ背負って、現地で宿を探す旅は初めてだったが、なんとかなると楽観していた。出発3週間前のある日、やっぱり行かないという電話を、彼女から受けるまでは。
「中止なんてもったいない、一人でも行けばいいのに」。テーブルの上の、無造作に投げ出された郵便物やスーパーで買った品々を脇に押しやったあと、餡ドーナツを袋からつまみあげて口に放り込み、もぐもぐしながら母は言った。もっと心配してもらえると思っていたから、なんだか腹が立った。
母とうまくいかなくなったのは、10代になってすぐだ。台所とわたしの部屋は、叩くと厚さが1センチないんじゃないかという音のする、薄っぺらな壁で仕切られていた。不器用な母が立てる騒々しい生活音は、いつもその壁をするりと抜け、わたしの四畳半に不法侵入した。ガシャン、となにかが落ちる音、父との口論、深いため息。思春期のわたしに、母は近すぎた。ヘッドフォンの中に閉じこもっても、ノックもせず部屋に入ってくる母からは逃げられない。旅をキャンセルしなかったのは、そういう意味でも、母の「後押し」のおかげだった。
ロンドンに母の音はなかった。次の夏も、そのあとの冬も、わたしは一人でヨーロッパに出かけた。自分も親になって初めてわかるのは、絵はがきを一枚送ったきり、まるだ音沙汰のない娘を信じて待った、母の強靭さだ。しかしふと、あのときの母の言葉に隠されていたかもしれない別の意味が思い浮かぶ。18年ものあいだ、たったの3週間でさえ、子育てから解放されたことがなかった母は、なんとしても娘を旅立たせたかったんじゃないか。そう考えると妙に納得がいき、珍しくわたしは、愉快な気持ちで母に共感できるのだ。(長島有里枝)
衝撃が走った。なんという素晴らしい文章なのだろう。
しかし、長島さんのプロフィールを見て、さらに驚いた。本職は写真家なのだという。とても写真家が書く文章ではない。
帰ってから、ぼくは長島さんの本を買った。『背中の記憶』という本だった。
このエッセイ集もまた、機内誌と同じ衝撃を受けた。とくに最初と最後の話。
「写真は見たものしか写らないが、文章は心を通して自分の思ったことが書ける」
簡潔で、表現力豊かで、ありありと映像が浮かんでくる長島さんのような文章を、ぼくもいつか書けるようになりたいと思うのだ。
講談社 (2015-07-15)
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