3年ほど前の話だが、池上彰さんが、とある講演会でこんな話をしたそうだ。
昨年、他の先生たちとアメリカに視察に行きました。ハーバード大学の近くのウェルズリー女子大学(ヒラリー・クリントンやオルブライト元国務長官を輩出した名門女子大学)で、学生にどんなことを勉強しているのかを聞いてみました。
経済学を勉強している学生に、「経営学も勉強するのかな?」と聞いたら、「経済学は学びますが、経営学は学ばないんです」と言うんです。
「日本なら学ぶけれど、どうして?」と聞いたら、「世の中がどのように動いているかを知ることは、社会に出たらとても必要なことです。だから、経済学は教養として必要なんです。でも、経営学は役に立ち過ぎるんです。役に立ち過ぎるようなことは、大学では教えないんです」と答えました。たまげちゃいましてね!
「大学でこそ、本当に役に立つことを教えなきゃいけないだろう」と思っていたら、そうではないんです。「役に立ちすぎることは教えない」と言うんですよ。どうしても経営学をやりたかったら、経済学の基礎を学んた後に大学院へ行けばいい。ビジネススクールに行って勉強すればいい。つまり、「すぐ役に立つことは教えない」という考え方です。
工業系で全米トップの大学であるマサチューセッツ工科大学にも行きまして、教育の話を聞いたところ、やはり、「社会に出てすぐに役に立つ学問は教えない」と言うんですね。
どうしてかというと、特に先端的な科学技術、あるいは情報技術の分野では、それまでの知識は5年も経つと古くなってしまい、役に立たなくなるということなんです。だから、大学で最先端の知識を教えても、大学を出て5年経つと役に立たなくなってしまう。
「どんどん科学が進んで行っても、常にそこについていける。あるいは、さらに新しい知識をきちんと身につけ、自らいろんなことを開発していく。そういう力をつけることこそが、大学に必要なことなんです。すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなるから教えないんです」ということでした。
「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」
これは、かつて慶應義塾大学の塾長であった小泉信三の言葉でもあるんですね。「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」。だから、「すぐ役に立たないようなことを教えれば、生涯ずーっと役に立つ」。こういう考え方が、今の「リベラルアーツ」という考え方になってきています。
これは昨今のメディアにおいても言えることだと思う。
「◯◯の方法」
「〜でやってはいけない10のこと」
その場限りで消費されるためのコンテンツが散見され、少しうんざりしている。ウケるのはその場限りで、1年経ったらもう時代遅れ。
タイトルで煽っているだけで、中身のない記事も多い。総花的で、個性がない。
ネットで調べたことだけで、記事として完成させてしまうものまで存在する。
ぼくは疑問に思う。
「すぐに読者の役に立つ文章を書く」ことは、真に自分の好きなことや書きたいことを抑えてまで、するべきことなのだろうか。
いったいどれだけの人が、
「本当に感じていること」を書かずに、
「ビュー数を稼ぐための記事」や
「書かなくてはいけないこと」に貴重な時間を使っているのだろうか。
こう書いたほうが読まれそうとか、ウケそうとか、いつまでそんなこと考えなくてはいけないのか。
評価基準に問題があるのかもしれない。
「最もアクセス数の多い記事=良い記事」ではなく、「最も自分らしい記事=良い記事」という評価基準があってもいいのではないか。
だが、企業のメディアでは、どうしても目先の利益や数字に追われて、そういう姿勢で運営していくのは勇気のいることだ。
だから、利益を求めない個人こそ、こういう姿勢でいきたい。
ぼくはまず、自分が見たもの、体験したことについて、書こう。というのがひとつ。
それから、アクセス数を稼ぐことやバズることを目的にしないというのがひとつ。
そして仲間たちにも、「そんなくだらないこと書くな」とハッキリ言わなくてはいけない。本当に好きなことを、熱量を込めて書いてほしい。個性を大切にしてほしい。
自分の好きなことを書く。ウケそうな記事ではなく、広めたい価値観や心から紹介したいものを書く。誰かのために、とか、あまり考えずに。時代に依らない価値観を発信していきたい。
ここに書いていくことは、あなたの人生において何の役にも立たないかもしれない。だからこそ少し力を抜いて文章にふれてほしいし、「すぐには役に立たない情報」にこそ、次代の価値があるとぼくは信じている。