インタビュー

My Eyes Tokyo 代表・徳橋功さんが照らす光

投稿日:2016年4月5日 更新日:

 -01-
アメリカで得たもの


「もう
20代も後半。大きなチャレンジをするなら、今しかない」

都内のテレビ局に勤めていた徳橋功さんは、決断した。アメリカへ渡り、カリフォルニア州のフレズノという町のテレビ局でインターンをした。それまで海外といえば、学生時代に香港へ行ったくらい。だからなおのこと、アメリカの片田舎の環境が刺激的だった。

とくにおもしろかったのは、仕事がないときに行っていた英会話学校。そこには世界中からやってきた人々が集まっていて、教室は「多様性」そのものだった。

お互いバックグラウンドは大きく異なるはずなのに、感情は共通していて、不思議とわかりあえる。その楽しさが、徳橋さんの未来を決定づけたのかもしれない。

あるいは、こんなこともあった。当時一緒に住んでいたアメリカ人のルームメイトと話していると、日本のことが全然知られていないことに気がついた。「日本人は中国語を話すのか?」とか、そんな質問を受けることもあったそうだ。日本のことを発信したい、という後の活動につながる気持ちも、このとき芽生えたのかもしれない。

1年はフレズノで過ごし、もう1年はロサンゼルスで働いた。しかしロサンゼルスでの生活は、徳橋さんにとってはそれほどおもしろさを感じられなかった。

「ロサンゼルスでは、日本のものはなんでもそろうし、日本人のコミュニティも大きい。変な話、『東京都ロサンゼルス区』っていう感じですよ。それに仕事が変わった影響も大きくて、フレズノで味わったような、人種の多様性がもたらす楽しさを感じられなくなっていました」

 -02-
「私の目に映る東京」を発信


アメリカから帰国し、再びテレビ局で働いた。
今度思ったのは、「日本にいながら、世界中の人々に会いたい」ということ。やっぱり、フレズノでの体験が忘れられなかったようだ。

徳橋さんは、日本に住む外国人たちと交流するなかで、彼らが日本をどう感じ、そして日本での日常をどう感じているかに興味を持った。そして2006年に生まれたのが、My Eyes Tokyoというメディアだった。

東京で暮らす様々な外国人にインタビューをして、「自分の目に映る東京」を発信していった。 落語家のスウェーデン人、日本茶の魅力を発信するアメリカ人やフランス人など、「へー、こんなユニークな外国人が東京にいるのか」と驚いてしまう。

名称未設定111

IMG_1119

 -03-
私の役割は、皆様に光を照らすこと

2013年からはハフィントンポストにも記事が転載されるようになり、メディアとしての影響力も増した。

フリーのインタビュアーとしても活動しており、自身のサイトには活動に対する想いが綴られていた。

「壮絶な人生を送ってきた人、努力して地位を獲得した人、今は無名だけどひたすら上を向いて頑張っている人・・・そのような人に出会い、貴重なお話をお聞きし、魂を震わせたいそれが私の活動の原点です」

印象に残ったのは、「私の役割は、皆様に光を照らすこと」という言葉だった。

12970506_10207086861262651_75098199_o

「目の前の人の魅力を最大限に引き出し、それを決して飾り立てることなく、引き出した魅力を真空パックにして読者の皆様にお届けすること。それが私の存在価値だと考えています」

事実、東京に暮らす外国人たちに、光を当て続けた10年間だった。徳橋さんが紹介しなかったら、知りえなかったであろう人たちに、ぼくらは元気をもらっている。My Eyes Tokyo の知名度が大きくなるまでには長い時間がかかったが、途中で投げ出さなかったのは、徳橋さんがこの活動の価値を信じていたからにほかならない。

「続けてさえいれば、必ず人は目を向けてくれる。私はこれからも皆様の声に耳を傾け、一編の物語にして世界中に伝え続けたいと思います」

12472576_1137925029581084_562110474312810606_n

-インタビュー

執筆者:

関連記事

「自分の海を自由に泳いでいたい」蒲田みずきさんの生き方

今年、二度にわたりお話を伺ったのは、モデルをはじめ、様々な分野で活躍する蒲田みずきさん。2013年には「ミスJJ」のファイナリストにも選ばれている。 蒲田さんのことは2年ほど前から知っていたが、実際に …

「イラストの力で、魅力あるものをわかりやすく、面白く伝えたい」イラストレーター りゃんよさん

「『大人のおもちゃ』を作りたくて玩具会社に入社したんだけど、『子どものおもちゃ』を作る会社だったからすぐに退職しちゃって」 「まず受ける前に気付こうよ」 強烈なインパクトを残した彼女は、イラストレータ …

「ご先祖は徳川家康の茶道指南役」遠州流茶道 小堀優子さん

江戸初期に総合芸術家として活躍した大名茶人・小堀遠州は、将軍徳川家の茶道指南役だった人物です。 少年時代の小堀遠州が千利休と出会ってから3年後、利休は秀吉の朝鮮出兵に反対して秀吉の怒りをかい、切腹しま …

「お兄さん、俺プロになりたい」夢を抱いた少年に背中を見せた2年間

大学1、2年生の2年間、近所の小学校で毎週末サッカーを教えていました。といっても、コーチという立場ではありません。 ひとりで壁に向かってボールを蹴っていたある日、小学生の保護者のひとりから、「良かった …

【すべては一本の電話から始まった】ぼくがミャンマーへ行く理由(前編)

(後編はこちら) 3月16日から23日まで、ミャンマーへ行く。今回は、極めて特殊な旅。遊びではないが、自腹なので仕事とも少し違う。うまく言葉で表せないけど、不思議な使命感がある。 特別な体験をすること …