目次
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アメリカで得たもの
「もう20代も後半。大きなチャレンジをするなら、今しかない」
都内のテレビ局に勤めていた徳橋功さんは、決断した。アメリカへ渡り、カリフォルニア州のフレズノという町のテレビ局でインターンをした。それまで海外といえば、学生時代に香港へ行ったくらい。だからなおのこと、アメリカの片田舎の環境が刺激的だった。
とくにおもしろかったのは、仕事がないときに行っていた英会話学校。そこには世界中からやってきた人々が集まっていて、教室は「多様性」そのものだった。
お互いバックグラウンドは大きく異なるはずなのに、感情は共通していて、不思議とわかりあえる。その楽しさが、徳橋さんの未来を決定づけたのかもしれない。
あるいは、こんなこともあった。当時一緒に住んでいたアメリカ人のルームメイトと話していると、日本のことが全然知られていないことに気がついた。「日本人は中国語を話すのか?」とか、そんな質問を受けることもあったそうだ。日本のことを発信したい、という後の活動につながる気持ちも、このとき芽生えたのかもしれない。
1年はフレズノで過ごし、もう1年はロサンゼルスで働いた。しかしロサンゼルスでの生活は、徳橋さんにとってはそれほどおもしろさを感じられなかった。
「ロサンゼルスでは、日本のものはなんでもそろうし、日本人のコミュニティも大きい。変な話、『東京都ロサンゼルス区』っていう感じですよ。それに仕事が変わった影響も大きくて、フレズノで味わったような、人種の多様性がもたらす楽しさを感じられなくなっていました」
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「私の目に映る東京」を発信
アメリカから帰国し、再びテレビ局で働いた。 今度思ったのは、「日本にいながら、世界中の人々に会いたい」ということ。やっぱり、フレズノでの体験が忘れられなかったようだ。
徳橋さんは、日本に住む外国人たちと交流するなかで、彼らが日本をどう感じ、そして日本での日常をどう感じているかに興味を持った。そして2006年に生まれたのが、「My Eyes Tokyo」というメディアだった。
東京で暮らす様々な外国人にインタビューをして、「自分の目に映る東京」を発信していった。 落語家のスウェーデン人、日本茶の魅力を発信するアメリカ人やフランス人など、「へー、こんなユニークな外国人が東京にいるのか」と驚いてしまう。
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私の役割は、皆様に光を照らすこと
2013年からはハフィントンポストにも記事が転載されるようになり、メディアとしての影響力も増した。
フリーのインタビュアーとしても活動しており、自身のサイトには活動に対する想いが綴られていた。
「壮絶な人生を送ってきた人、努力して地位を獲得した人、今は無名だけどひたすら上を向いて頑張っている人・・・そのような人に出会い、貴重なお話をお聞きし、魂を震わせたい – それが私の活動の原点です」
印象に残ったのは、「私の役割は、皆様に光を照らすこと」という言葉だった。
「目の前の人の魅力を最大限に引き出し、それを決して飾り立てることなく、引き出した魅力を真空パックにして読者の皆様にお届けすること。それが私の存在価値だと考えています」
事実、東京に暮らす外国人たちに、光を当て続けた10年間だった。徳橋さんが紹介しなかったら、知りえなかったであろう人たちに、ぼくらは元気をもらっている。My Eyes Tokyo の知名度が大きくなるまでには長い時間がかかったが、途中で投げ出さなかったのは、徳橋さんがこの活動の価値を信じていたからにほかならない。
「続けてさえいれば、必ず人は目を向けてくれる。私はこれからも皆様の声に耳を傾け、一編の物語にして世界中に伝え続けたいと思います」