今年3月、テレビをつけると、美川憲一さんと坂口杏里さんが1対1で口論していました。TBSの「今夜解禁!ザ・因縁」という特別番組で、番組の企画とはいえ、真剣でした。
5年前、金銭トラブルやセクシー女優転身など様々な騒動を起こした末に芸能界を引退した杏里さんですが、「もう一度、キラキラした世界に戻りたい」とフリーで活動を再開。
しかし美川さんは「芸能界は仕事がきてナンボの世界。なめてる。やめたほうがいい」とバッサリ。
「私がやりたいことに口突っ込まないで!」と杏里さんが逆切れすると「お黙り!あんたは可愛げがないのよ」と一喝しました。
「あんたは可愛げがないのよ」 妙にドキッとする言葉でした。
それ以来、「可愛げ」という言葉が、頭の片隅に引っかかっていました。可愛げのある・なしが、人生にどのような影響を与えるのだろう?
昨年、「学生のうちに自分でビジネスをやってみたい」と意欲に燃える大学生と出会いました(今は和解したので、あえて「こんな出来事があった」という話を書きます)。
以前、この子から「あることを思いついたんだけど、ちょっとアドバイスが欲しいから電話できる?」とLINEがありました。この子は敬語を使いません。まあそれはいいんだけど。
「タピオカ屋さんが流行っているから、はじめはタピオカ屋さんをやろうと思った。でももうお店は飽和状態だから、小さい店舗を借りて、抹茶のスイーツのお店をやりたい」
「お店のコンセプトは?」
「コンセプト?インスタ映えすれば売れるでしょ」
舐めている。
「開業の資金は?」
「最近知り合ったお金持ちの人がお金出してくれるって言ってくれて!」
「よかったね」
なんだそれ、危なっかしい。
そんな浅い考えで、簡単にうまくいくわけがないとは思いつつも、足を引っ張るようなことは言いたくない。なるべく背中を押してあげたい。自分でやってみて、自分で失敗して、何がいけなかったのか、自分で学び取ってほしいと考えるスタンスなので、「こうしたらうまくいかないよ」「やめた方がいいよ」とは言いたくなかったのです。
ただ、物件さえあれば開業できると思っていたようだったので、
「飲食店を開業するためには保健所の許可が必要だよ」と教えたら、
「え?嘘?そうなの?それって誰情報?」
と言われたから、ぼくは少しムッとしました。「誰情報?」って、失礼じゃないか?
なぜ教えを請う立場の人が、相手(しかも遥かに年上)の言うことを信頼しないのだろう?、とこの態度が気になりました。単にぼくが短気なだけだろうか? でも、ハッキリ言って「可愛げがない」。
それでもグッと堪えて、1時間くらい電話したんです。その後もスイーツ店に関する情報などがあれば、何かの参考になるかもしれない、と記事のリンクや写真を送りつけていました。「川越行ったらこんな抹茶のスイーツが行列作ってたよ」とか。
数週間が経った頃、また「こんな情報があったよ」とLINEすると、
「ありがとう〜。抹茶のお店はやめて、Webメディアを立ち上げることにしたんだ!たくさん記事書いてるよ〜」
と言ってきたので、ぼくはショックというか呆れるというか、なんとも言えないモヤモヤした気持ちになりました。
「そうなんだ!頑張ってね!」と言いながら、もうこの子に真剣に関わるのはやめようと思ったのです。
でも、ぼくはそこで立ち止まって、「なぜそう思ったのか」「何が自分の癪にさわったのか」を考えてみることにしました。
これは、「人に応援されるとはどういうことか?」を考えるうえで良い題材だと感じたからです。
やりたいことが変わるのは、全然構わないのです。ぼくだって、よく気が変わります。
最初はAをやりたいと思った、でもだんだんBをやりたい気持ちが芽生えてきた。よくあることです。その時本当にやりたいことに、全力を注げばいい。
ぼくが残念だったのは、やりたいことが変わったことではなく、方向転換したタイミングで、教えてもらえなかったことです。
その連絡がないために、ぼくは抹茶に関する情報を無駄に集めていたことになります。
だから、「Webメディアを立ち上げることにした」と言われたときのぼくの感情は、「ぼくだってそんなに暇じゃないんだよ!」でした。きっと、自分の時間を蔑ろにされたような気がして、そこに苛立ちを感じたのです。
なぜ、「こうしたら、他人はどう思うだろうか?」という想像力や配慮が働かなかったのか。もしも逆の立場だったら、「中村さんにあそこまで相談に乗ってもらったのに、やることが変わってしまって申し訳ないな。一言お詫びしなくては」とすぐに連絡するでしょう。
そのちょっとした想像力が欠けていたために、この子は「自分勝手な人間だ」という印象を、残念ながらぼくに与えてしまった。
その結果として、ぼくは「もう応援したり、まともに取り合うのはやめよう。真剣に向き合っても、自分が損するだけだ」と思うに至りました。
つまり、この子はひとりの人間から、信頼を失ったのです。たったそれだけで、成功するかどうかに影響するかはわかりません。でも同じような態度を、もし他の人にも同じようにとっているとしたら、やはりどこかのタイミングで信頼を失うような出来事が起きて、人が離れていくだろうなと感じました。
それから1ヶ月くらいして、突然連絡がきました。
「今ビジネスを教えてもらってる社長に本気で怒られてしまい、たった一週間で見切られそう。最初はすごい親切にしてくれたのに。どうしよう。なんでこんなことになったんだろう?」
内心「ほれみろ」と思いました。
その社長が怒っている理由や、なんて言われたのかを聞くと、ぼくがその子に対して感じていた印象と全く同じものでした。やはり「人への想像力が欠けている」と指摘されていました。
また、この子は「実力があれば礼儀なんてどうでもいいじゃん」と考えていたようで、その社長が礼儀を大切にしすぎているような気がして違和感を持ったようなのです。でもぼくはむしろ社長に賛同で、「なぜ礼儀を疎かにできるのか?」と、この子の感覚が疑問でした。
まず、約束の時間に遅刻して、怒られたのこと。「遅刻したくらいでそんなに怒らなくてもよくない?」と思ったそうですが、ぼくは「あのなあ・・・」と思いました。
もうその時点で相手への敬意が足りていないし、他人の時間を奪っているという感覚を持ち合わせていない。ビジネスの世界では、些細な遅刻が致命的になったりします。
「あなたは世の中を変えるサービスを作りたい、人のために、とか大きなこと言うけど、その些細な気付きや想像力すら働かないようで、大勢の人を幸せにできるサービスを作れるわけないでしょう」
この世界では、確かに能力は重要です。でも能力だけでは成功できない、ということを、感じています。
この子は、頭も良いし、能力も高いのに、もったいなかった。聞き方ひとつ、リアクションひとつで、「もっと有益な情報を教えてあげよう」「もっと協力してあげよう」「人を紹介してあげよう」と色んな人に思わせることもできたはずなのに、そこを疎かにしてしまった。というか、その小さなことの大切さに気付かなかった。
成功するためには、「人に応援される」ことがとてつもなく大切になってきます。人に嫌われるようなことをしていたら、どれだけ能力があっても、人や社会を動かせません。
だからこそ、「自分のやりたいことを人に応援してもらうためには、どのような姿勢で人と向き合うことが重要なのだろうか」と本気で考える必要があります。美川憲一さんはそのことをわかっていて、「あんたは可愛げがないのよ」というひと言で本質を突いたと思います。
今、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を読んでいても、思うところがあります。
裏表紙にはこうあります。
「紀元前3世紀末、秦の始皇帝は中国史上初の統一帝国を創出し戦国時代に終止符をうった。しかし彼の死後、秦の統制力は弱まり、陳勝・呉広の一揆がおこると、天下は再び大乱の時代に入る。――これは、沛のごろつき上がりの劉邦が、楚の猛将・項羽と天下を争って、百敗しつつもついに楚を破り漢帝国を樹立するまでをとおし、天下を制する“人望”とは何かをきわめつくした物語である」
天下を制する人望とは何か。圧倒的な強さを誇る項羽に、なぜ劉邦は勝てたのか。彼が持っていたのが、まさに「可愛げ」でした。司馬遼太郎も物語の中で、はっきりとその言葉を使っています。
「こいつは俺が助けてやらないと、どうしようもない」と周りの人たちに自然と思わせる可愛げが、劉邦にありました。また劉邦といると、誰もが「自分は有能で、素晴らしい人間なのではないか」と感じられました。相手の話をよく聞く。自分が間違っていると思ったら素直に認める。利益を独り占めしない。
挙げればキリがないですが、ひとつひとつの行動、姿勢に、劉邦の「可愛げ」が描かれていました。これこそ、人に応援される人間の本質ではないかと感じました。