宮城県南三陸町に、震災の真実を伝え続ける、地元の「語り部」がいる。来る日も来る日も、この町を訪れる人々に話をしている。
2015年、何かに導かれるように南三陸を訪れた。ほんの一端ではあるが、報道されていない事実を知ることになった。
目次
「語り部バス」に乗ってみたい
2015年3月14日(土)、宮城県南三陸町を訪れた。
そもそものきっかけは、宮城県塩釜市に住む友人ができたことだった。「塩釜はすごくいいところだから、一度来たらいい」と何度も言ってくれた。ぼくは塩釜のことをまるで知らなかったが、「マグロが有名」という言葉に惹かれた。魚が好きなのだ。
塩釜行きが決まったときから、「塩釜以外では、どこへ行こうか」と、考えていた。ぼくの求めるものは至極シンプルで、「太平洋を眺められる温泉に浸かりたい」という、ただそれだけだった。
そんな温泉がないか調べてみると、意外にも見つかったのは一件だけだった。「南三陸ホテル観洋」というホテルに「南三陸温泉」があり、どうやら素晴らしい眺めを堪能できるようだった。ホテルのサイトを見ていると、気になる記事が紹介されていた。
参加者6万人超、宮城・南三陸「語り部バス」の磁力(日本経済新聞)
風化が進む中で、あの日に何が起こったのか知りたいと町を訪れる人も多い。同ホテルでは12年2月から毎朝、「語り部バス」を運行している。「どこに何があったのか案内してほしい」という宿泊客の要望に応えたのが始まりだ。3年間で約6万2000人がバスツアーに参加した。
当初は温泉に入りたいと思って行き着いた「南三陸」だったのだが、この記事を読んでから、「このバスツアーに参加して、震災のことを学びたい」という想いにシフトし始めた。しかし、どうやらこのバスツアーは宿泊者限定のもので、塩釜から日帰りで訪ねるぼくらには、参加できないものらしい。
だが、南三陸町を自分たちだけで訪れても、震災のことを深く知れるとは思わなかった。もちろん、行かないよりは行った方がいいに決まっているだろうが、せっかく行くのであれば、どうしても地元の『語り部』の話が聴きたい。
その想いを、「南三陸ホテル観洋」に伝えたところ、なんとぼくらのために特別に『語り部』の方がガイドしてくださるということになった。それも通常のバスツアーが1時間で終わるところ、3時間近く案内してくださるというありがたいものだった。
そして3月14日(土)のお昼過ぎ、ぼくらは南三陸ホテル観洋のロビーで、『語り部』の伊藤俊さんにお会いした。
「『震災のことを学びたい』と、遠いところから熱意を持って訪ねてくださることが本当にうれしいです。本日はよろしくお願いします」
助手席にお乗りいただき、ホテルを出発すると、南三陸町に起きた真実を知るツアーが始まった。
「では、まずは戸倉へ向かいましょう。ここで起きたことは、テレビでもほとんど報道されていません」
事実、本当に知らないことばかりだったのだ。
戸倉地区へ
最初に向かった場所は、高台に位置する戸倉中学校だった。駐車場の横にはたくさんの仮設住宅があり、今も多くの人がそこで生活をしていた。
校舎の横からは、海が見下ろせた。かなり高い場所に建っているが、この校舎の1階の窓の上のところまで、波が押し寄せてきたという。グラウンドに避難していた生徒1名、先生2名が犠牲になった。まさかここまで津波が来るとは思わなかっただろう。
伊藤さんは校舎の時計を指差した。
「あの時計の針は、地震の瞬間から止まったままです。電気で動いていたからです」
「地震があったのは、確か14時46分でしたよね? 2分くらい進んでませんか?」
「そう、電気がストップしたのが、地震の2分後でした。つまりあの時計の時間からだったんです。今はまだ、このように震災のことを伝えてくれるものが残っています。でも、いつかはこの時計も消えてしまうんです」
戸倉中学校は、生徒数の減少が原因で、67年間の歴史に終止符を打ち、2014年3月31日に廃校となった。
窓ガラスから、ある教室を覗くと、黒板には翌日の予定が書かれたままになっていた。何もなければ、卒業式が行われていたようだ。何もなければ。
戸倉小学校が報道されない理由
中学校の裏手からは、何もない平らな土地で、着々と復興作業が進められている様子が見渡せた。伊藤さんは鞄から写真を取り出し、ぼくらに見せながら言った。
「戸倉小学校は、あの辺りにありました」
海から300メートルほど離れた位置にあった戸倉小学校は、10日前に完成したばかりの新しい体育館も含め、すべてが波に飲み込まれた。校舎の屋上よりもさらに5メートル高い位置まで津波がやってきたのだ。もしも屋上が避難場所に指定されていたら、多くの犠牲者を出したことだろう。
しかし、この戸倉小学校では、ひとりの犠牲者も出なかった。そして驚くべきことに、震災のつい2日前までは、この小学校の屋上が避難場所となっていたのである。
実は、2011年3月9日に、少し大きめの地震があった。そのとき、戸倉小学校では、校舎屋上に避難したあと、先生たちの間で話し合いが行われたそうです。「本当にここが避難場所でいいのか」と。結局、山の方にある神社が新たな避難場所となり、翌日の3月10日は実際に避難訓練が行われた。
そして、3月11日を迎えた。
先生は、刻一刻と迫る津波の危機を前に、点呼を取ることも省き、とにかく迅速に神社へと避難させた。もしもマニュアル通りに点呼を取っていたら、逃げ遅れる生徒が出るなど、状況は異なっていたかもしれない。大事な場面では、マニュアル通りにやることよりも、マニュアルを超えた判断力が試される。たっとひとつの判断が、人の命を左右する。この事例は、実に多くのことを教えてくれた。
にも関わらず、ぼくはこの戸倉小学校の出来事を知らなかった。
「(石巻の)大川小学校は何度も取り上げられますが、戸倉小学校のことは知らない人がほとんどです」
「すごい話なのに、どうしてメディアはほとんど取り上げないのでしょうか」
「犠牲者が、出なかったからかもしれませんね」
伊藤さんは、少し寂しそうな顔で笑った。
このことだけではない。毎年、3月11日が近づくと、その数日間だけ報道陣がうわーっと押し寄せて、12日になるとパタッと消えてしまうそうだ。そして、大方どんなストーリーで報道するかが決められた状態でインタビューを受けるため、色々と話しても、「マスコミが欲しい情報だけ切り取られて、そのほかのほとんどの部分はカット」されてしまうという。ひどい場合だと、「そんなこと言ってないのに」という全然とんちんかんな内容で報道されることもあるそうだ。
しかし、「マスコミはひどい」のひと言で片づけてしまったら、生産的なことはひとつもない。もしも自分がマスコミの人間だったら、「そうなってしまうのもしょうがない」と思う部分もあるかもしれない。だからこそ、ぼくのように自由に書ける個人が、自分の足で動き、そこで見聞きしたものを、存分に伝えていくことが大切なのだと思う。
本来当たり前のことなのだが、「書きたいことを書いていこう」と、ぼくはこの出来事がきっかけで、あらためて思った。それが既存のメディアにあり方に対する、ぼくなりの抵抗なのだ。批判だけでは前には進まない。
自分の目で見て、感じる
戸倉地区を後にし、ぼくらは南三陸町の中心部へ向かった。
被害の大きかった高野会館、防災対策庁舎へ案内してくださり、ここでもまた有意義なお話を聞くことができた。
「今日は南三陸までお越しいただき、ありがとうございました。こうして震災の現場を見に来てくださることは、私たちにとって、本当にうれしいことなんです。訪れた方々には、自分の目で見ていただいて、何かを感じて帰っていただければ幸いです」
うまく言葉にできなかったが、「ここに来て良かったです」と伝えた。伊藤さんは、淡々と事実を伝えてくださった。その事実から感じること、考えることは、人それぞれで異なると思う。
ぼくにとっては、先にも述べたように、「メディアのあり方」について、考えさせられた。利益や数字にこだわらない個人のライター、そしてこのようなオウンドメディアこそ、短絡的な評価やトレンドだけに流されず、真っ当な記事、本質的な記事を書いていきたい。
高台から見下ろした南三陸の町では、復興作業が、黙々と続いていた。