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ブラショフと日本の意外な関係

投稿日:2015年10月29日 更新日:

中世の街並みを残す、ルーマニア第2の都市ブラショフを訪れたとき、ガイドさんがブラショフと日本の意外な関係について話してくれたのですが、これがぼくにとって実に興味深いお話でした。

「ブラショフは、東京の武蔵野市と姉妹都市になっています」

「どうして武蔵野市が?」

「ブラショフと武蔵野市の交流の歴史は、1991年11月に遡ります。1989年の革命から2年後になります。ブラショフにはジョルジュ・ディマ交響楽団というオーケストラがあるのですが、その指揮者を務めていたのが、日本人の曽我大介さんという方でした。

かつて武蔵野市民でもあった曽我さんは、武蔵野市の市長を訪ね、ブラショフのオーケストラを日本に招待していただけないか、と切り出しました。市長が「オーケストラのメンバーは何人いるの?」と尋ねると、曽我さんは、「60名です」と答えました。当時ブカレスト〜東京間のフライトはひとり往復5000ドルもしましたから、60人なら300,000ドルと大変な金額になります。

しかし、市長は何とかこの若い音楽家の夢を叶えてやりたいと思い、多摩地区の近隣市長たちに協力を呼びかけ、政府助成金獲得など、あらゆる努力と交渉を、大変なエネルギーでこなしました。

その甲斐あって、1992年の9月、オーケストラの全メンバーが日本に招待され、コンサートが開かれました。4つの市から集まった4000人の市民たちの前で日ごろの成果を披露し、人々は見事な演奏に感動しました。これが武蔵野市とブラショフの交流の始まりでした」

ルーマニア人にとって、社会主義時代は海外旅行なんてできなかったから、日本へ行くなんて夢のまた夢の話で、ブラショフの若い演奏家たちは、飛行機に乗る瞬間まで、この出来事が信じられなかったといいます。

「彼らを日本へ連れて行きたい」

そういう曽我さんの強い想いには深く共感するとともに、素晴らしい行いをされたな、と尊敬の念に駆られました。実は、曽我大介さんは、ぼくが所属していたワセオケの指揮者でもあったので、練習で何度か接する機会がありました。そのときの記憶も蘇り、良い話だなあとしみじみと、この美しい街並みを眺めながら聞いていたのでした。

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