何かを見て「これがやりたい」と感じたとき、それは自分の美しさそのものだと考えている。
「きっと自分には向いてない」とか「自分の立場でできることじゃない」とか、そんなことは一切考えず、やりたいと感じたら、「これをやりたいと思うことこそが自分の美しさだ」と考える。
よく美術館に行く。たとえば、ピカソの絵を見て美しいと感じたとき、ぼくはその絵の美しさに感動しているというよりも、ピカソの絵の中に、自分の美しさが含まれていたことに感動している。美しいものを見たとき、自分の中の美しさが共鳴する。
同じ絵を見ても、それを美しいと感じない人もいる。人それぞれ、異なる美しさを持っているから当然のこと。でもぼくは人と美しさの比較をしたいのではなく、ただひたすらに、自分の中にある美しさを追求したい。
すべてのものが、美しさを持っている。スピーチ、和菓子、コーヒー、ワイン、服、靴、建築、本、機能…。人なら外見の美しさだけでなく、行動の美しさや言動の美しさもある。その人にしかできないことをやっている人には、ほとんどの場合美しさを感じる。この文章はこの人にしか書けないものだなあ、と思うととてつもなく愛おしい。
何かに美しさを感じて、それが他の人にはない自分自身の美しさと知った以上、やはり表現せずにはいられなくなる。美しさは、地位や能力や資金の問題、全てを超える。神聖なものであり、次元が違うものだと感じている。迷ったら、美しいと感じる方を選択すればいい。
美しさに従う限り、限界はない。サッカーも自転車旅も、オーボエも和太鼓も、協賛集めも添乗員も、なんだってできてしまう。全て美しさを感じたからだ。
バイタリティーとは、人それぞれが持っている美しさの表現なのかもしれない。何かに心を動かされたとき、感動したとき、きっとそこに自分自身の美しさが含まれているはずだ。
そんなことを思うから、ぼくはなるべく自分の目と体で、様々なものにふれるようにしている。色んな世界を見てみたいと思うのもそのためだ。だって、どこに自分の美しさが眠っているかなんて自分でもわからないから。
海外に出て初めて日本の良さに気付くように、自分のことも、なかなか自分ではわからない。だからたくさんの場所に足を運び、たくさんの人に会って話をする。他人の考え方の中に自分の美しさを発見することもあるし、「嫉妬」という形で自分の美しさを知ることもある。
でもいずれにせよ、心を動かされたらそれが美しさなのであり、それを知った先に、自分の意識以外に行動を妨げるものはない。