早朝、雑念のない頭で、しーんと冷たい河川敷を走っていると、最近見たもの、聞いたこと、感じたこと、バラバラに体験したひとつひとつの物事が、一本の線でつながれて、ひとつの物語性を帯びてくる感覚がある。そのときの幸福感というのは、何物にも代えがたいもので、それがぼくが小さい頃からランニングを続けている理由のひとつになっている。
小学生高学年の頃から、走る習慣がある。当時、真ん中の兄が大学の駅伝ランナーだったので、ときどき一緒に走った。走る姿勢をよく正された。高校生になって、半年も経たずにサッカー部を辞めたあと、運動不足になるのが嫌で、放課後にひとりで10~15kmランニングをしていた。今考えれば、変わった高校生活だった。
帰宅部なのに、友達と帰り道に遊ぶこともせず、他の運動部員がグラウンドで汗を流しているときに、ぼくはひとりで野島や八景島シーパラダイスやときには京急富岡の方まで、道に迷いながら、ランニングをしていた。夕日が美しくて感動したこともよく覚えている。
大学生になって、2限の授業をよく、ランニングのために欠席した。それくらい、ぼくにとって走ることは重要なことだった。
走ることがもたらす効用を見事に表現してくれたのは、村上春樹さんだった。『走ることについて語るときに僕の語ること』、それから割と最近のエッセイである『職業としての小説家』を読んだとき、自分の感覚は間違っていなかったと、言いようのない感動があった。
フィジカルな体験が知的なアウトプットに与える影響は極めて大きい、とぼくは感じている。村上さんもきっと、同じようなことを思っているに違いない。
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