インタビュー ミャンマー 忘れられないエピソード

【すべては一本の電話から始まった】ぼくがミャンマーへ行く理由(前編)

投稿日:2017年3月13日 更新日:

(後編はこちら

3月16日から23日まで、ミャンマーへ行く。今回は、極めて特殊な旅。遊びではないが、自腹なので仕事とも少し違う。うまく言葉で表せないけど、不思議な使命感がある。

特別な体験をすることになるから、ひとりの書き手として、「生」の情報をシェアしていきたい。「アジア最後のフロンティア」といわれるこの国で、いま何が起きているのか。ミャンマーで見たこと、感じたことを、素直にこのブログで伝えていこうと考えている。

そして、このような経験ができることに関して、関係者の方々には深く感謝したい。「運が良い」だけではとても片付けられない。

はじめに、ミャンマーへ行くことになった経緯について話しておきたい。きっかけは、1年半前に遡る。

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ノーベル平和賞の盟友が近所でラーメンを作っていた

二子新地の「大陸麺本舗」というお店に、よく仕事帰りに立ち寄っていた(過去形なのには理由がある)。ここには、流暢な日本語を話す気さくなご夫妻がいた。ウィンチョさんとマティダさん。彼らはミャンマー人だった。

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「この写真は何ですか?」

以前、店のレジの横に飾られた写真について、尋ねたことがある。

「これって、アウンサンスーチーさんですか?」

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「そうです。2013年にスーチーさんが日本に来たときの写真です」

「なぜ、奥さんが一緒に写っているんですか?」

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「私は、スーチーさんと一緒に闘ってきたんです」

「???」

このときは何を言っているのか、意味がよくわからなかった。

また別のある日、会計時にこんなことを言われた。

「明日は大事な選挙の日です。応援しててください」

「何の選挙ですか?」

「ミャンマーの総選挙です。スーチーさんの最後のチャンスです」

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ぼくはミャンマーについて、全くもって何も知らなかったのだが、この国では長く軍事政権が続いていた。与党が負けることはなかった。しかし、2015年の選挙は、少し様子が違った。

その選挙結果は、日本でも大きく取り上げられていた。スーチー党首率いる最大野党、国民民主連盟(NLD)の勝利が確定的で、50年以上続いた軍事政権がついに終焉を迎えるかもしれない、と話題になっていた。

このニュースを見た瞬間、ぼくはお店に電話をかけた。予約する目的以外で飲食店に電話をかけたのは初めてのことだった。今思えば、どうしてそんなに勢いよく電話をかけられたのかわからないが、すべてはここから始まった。

「もしもし、いつもお店に通っている中村ですが、スーチーさん、やりましたね! おめでとうございます!」

「え? ありがとうございます!」

「あとでお店行くので、インタビューさせてもらえませんか? スーチーさんとの関係について、お聞きしたいです」

「・・・わかりました。今日の17時頃来てもらえますか」

そして店主のウィンチョさんとマティダさんから、衝撃的なエピソードを聞かされることになった。彼らはスーチーさんの盟友とも呼べる人物だったのだ。

スーチーさんとの過去

「マティダさんとスーチーさんの関係は、いつからなんですか?」

「最初に会ったのは、私が中学生くらいのとき。私の母が、スーチーさんのお母さんの後輩だったんです。それで、私もよくスーチーさんの家に行きました。一緒に政治活動をしたのは、1988年のときです。ミャンマーでは1962年から軍事政権が続いていましたが、1988年に大きな学生運動があったんです。学生運動のきっかけになったのは、治安部隊の発砲で数人の学生が殺されてしまった事件があったからで、その殺されたうちのひとりが、主人の友人だったんです。

主人と私は、大学の先輩後輩でした。そのときはまだ付き合ってもいませんよ。一緒に学生運動をしていただけです。それで、ちょうどその頃、スーチーさんがイギリスから帰ってきたんです」

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「スーチーさんはイギリスに住んでいたんですか?」

「そうです。イギリス人と結婚していたからです。でも、スーチーさんのお母さんの体調が悪くなったので、看護のためミャンマーに帰ってきたんです。だから、学生運動をしていた私たちは、スーチーさんのところへ行って、『私たちのリーダーになってください』って言いに行ったんです」

「マティダさん、立役者じゃないですか。でもちょっと待ってください。スーチーさんは当時から有名な人だったんですか?」

「スーチーさんのお父さんは、日本でいえば坂本龍馬のような人ですよ。ビルマ(現ミャンマー)の独立運動を主導した、『ビルマ建国の父』です」

「なるほど、だからスーチーさんも影響力のある人だったんだ」

「それでスーチーさんは、1988年8月26日に50万人の前で演説を行いました。さらに1990年の総選挙に向けて、国民民主連盟(NLD)の結党に加わりますが、スーチーさんは軟禁されてしまいます。1990年の総選挙では、NLDが81%で大勝したのにもかかわらず、軍政側は政権を譲らなかったんです」

「選挙に負けたのに政権を譲らないなんて、そんなことがありえるんですか」

「ひどいでしょう。だから今回だって、スーチーさんが勝ったけど、軍党が何をするかわからないですよ。『今回は選挙結果を受け入れる』と言っていますが、油断できません」

命の恩人は、日本の「お父さん」

「マティダさんは、それからどうしたんですか」

「私も2回、逮捕されました。それぞれ2ヶ月間と1ヶ月間、出してもらえませんでした。政治運動していたからです。暴力も受けましたが、何を聞かれてもわかりません、わかりませんって言い続けました」

「日本に来たのは、どういうきっかけですか?」

「1991年のあるとき、ビルマの日本大使館から電話がかかってきたんです。不思議に思いました。どうして日本大使館がうちの電話番号を知っているんだろうって。実は、ビルマに駐在していた松下電器の岩見さんという方と仲良くなって、私のことをすごくかわいがってくれたんです。その人が日本に帰った後、私の命の危険を心配して、日本大使館にお願いしてくれたんです。私が日本に来れるようにって」

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「命の恩人ですね」

「そうです。だから『お父さん』と呼んでいます。最初は大阪にあった『お父さん』の家に住まわせてもらっていたんですけど、彼は仕事で日中いない、奥さんは日本語しかわからない、少し英語ができる学生の娘さんもほとんど家にいない、私も日本語まったくわからない。だから全然話ができませんでした。少し経ってから、私は東京で暮らすことになりました。東京には他にもビルマからやってきた人たちがいたから。『お父さん』は2年前に亡くなってしまったんです。今回のスーチーさんの勝利のこと、伝えたいです」

「ご主人のウィンチョさんとは、東京で再会したんですか?」

「そうです。実は私が日本に来る少し前から、主人は日本に来ていました。もともとヤンゴン国際空港でエンジニアとして働いていましたが、その空港建設のプロジェクトは日本の企業が関わっていました。だからその関係で、栃木県にやってきたんです。あるとき、東京で偶然再会して、その3日後にプロポーズされました(笑)」

「運命的ですね(笑)」

「しばらく別々の仕事をしながら生活していましたが、2010年にこのお店がオープンして、今に至ります。ちなみに、NLDの日本支部を作ったのは主人なんです

「そうなんですか。写真の件ですが、スーチーさんと日本で再会したときは、嬉しかったでしょうね。向こうもマティダさんのこと、わかったんですか?」

「24年ぶりの再会でしたけど、向こうもわかっていました。私が日本にいることも知っていましたし。東京大学で会議があった日に会えたんですけど、写真のときは、学生とか報道陣とかたくさんいました。でもその日の朝、ラッキーなことに、2人きりで会えたんです。10分か15分くらい話せました」

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日本からしかできないことを

「ミャンマーには帰らないんですか?」

「帰りたいですが、今帰っても、また捕まってしまいますから」

「そうか。過去のことがあるから」

「でも、スーチーさんを応援するために、日本からしかできないことをやっています。たとえば、ミャンマーにいても、情報統制がなされて、正しい情報がわからなかったりします。むしろ日本にいた方が、ネットを通じてミャンマーの情報がわかるんです。だからそうした情報を、ミャンマー国内にいる同志たちに伝えたりしています。また、日本の政治のことを伝えたりもします。『日本ではこうしているよ』って。

それから、ミャンマーの若い子たちに政治への関心を持ってもらわないといけないから、Facebookでコミュニティページを作って、そこに情報を送ったり。あるいは日本の外務省やメディアに対して情報提供を行ったりもします。時事通信の人からよく電話かかってきますよ」

「なるほど。でもスーチーさんが無事に政権を取って、条件が整えば、ミャンマーに帰れますね」

「はい。でも、日本にもたくさんの恩がありますから、完全にミャンマーで暮らすというよりは、日本とミャンマーの架け橋のような存在になりたいですね。とにかく、今は一刻も早く、ミャンマーが平和な国になってほしいと願っています」

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思いもよらぬ反響

インタビューはここで終わりだったが、話にはまだ続きがある。

このインタビュー記事を書き、匿名のブログで紹介したところ、思わぬ反響があったのだ。

再度お店を訪れたとき、マティダさんに言われた。

「以前、中村さんが私たちのことをブログで紹介してくれたでしょう?」

「うん」

「そしたらこの前、あのブログがきっかけで京都に住んでいる方から連絡があって、今度会うことになったんですよ。京都から会いに来てくれるんです。本当にありがとうございます」

「えー!それは嬉しいですね〜」

「それだけじゃないよ」

と言ったのは、厨房にいたご主人。棚から書類を取り出し、ぼくに見せた。

「NHKの人が突然やってきて、『この記事で知りました。取材させてください』って言ってきたんですよ。プリントアウトした、中村さんの記事を持って」

その「書類」は、紛れもなくぼくのブログだった。思わぬ人が、見ているものだ。

NHKの番組に発展。そして突然の別れ

後日訪問したときには、さらに発展していた。

「あれからまた、すごいんですよ。東京新聞の人が取材に来たり、この前は学校で講演もしたんですよ」

「ええ?すごいじゃん、おめでとう!」

「NHKの人も、東京新聞の人も、学校の先生も、みーんな中村さんが書いてくれたブログを印刷して持ってくるんです!あっはっは!」

「ほんとに? すごい反響だね〜」

「そうですよ〜。中村さんが書いてくれたおかげです」

究極は、NHKで彼らの特集が制作されたことだ。

実は昨年、ウィンチョーさんご夫妻は、25年ぶりに祖国ミャンマーへ一時帰国することができた。その様子を、NHK取材班が追いかけ、ドキュメンタリーとして放送した。非常に感動的な内容だった。

自分が勢いでかけた「一本の電話」から、すべてが始まった。映像を見ながら、感慨深く思った。

いつかミャンマーへ行ってみたい。ご夫妻と出会ってから、そういう想いは心の片隅にあった。

しかし、2016年10月、突然彼らと別れることになった。

「今月末で、お店を辞めることになりました」

「え!?」

「私たちはしばらく東京のどこかで働くから、また会いましょう。今までありがとうございました」

彼らがいなくなったあとも、お店は残った。しかし、それは表面的なものにすぎなかった。お店は、人が変わると、まったく別のお店になるのだと知った。ぼくは2、3回訪れて、「違う」と感じて、それきり通わなくなっていまった。

毎日のように接していた人たちがいなくなり、とても淋しくなった。

だけど、お店の最終日にお別れの挨拶をしたとき、彼はひとつ、気になることを言い残した。

「今じゃないけど、中村さんに、会ってほしい大学生がいるんだ。その子と会って、またブログに書いてほしい」

「え?どういうこと?」

「また話しますから。よろしくお願いします」

後編につづく・・・)

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